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エッセイ

災害

JR宝塚線脱線事故の報告書に漏えいがあったことが報じられた。事故が起きたのは2年前の6月、犠牲者が100名以上という前代未聞の鉄道事故だった。まるで薄いアルミ箔のようになってマンションの壁面に巻きつく電車が、テレビに映し出された。大都市を走る早朝の通勤電車、乗っていたのはごく普通の市民たち。さらに「日勤教育」という、JR内部で行われている厳しい社員教育が、運転手に大きなミスを起こさせる原因になったと報じられた。完全な「人災」だと、私は思った。残された家族ほかの悲しみは、想像を絶するものがあるだろう。
そして今回の漏えい事件。中立の立場で設けられたはずの事故調査委員会のある委員に、JR西日本の副社長が接触し、調査に関する情報が漏らされていたというのだ。「私の個人的な判断で行った」もので「軽率で不適切」「秘密の保持を甘くみていた」と、「今後はコンプライアンスを遵守し・・・」と釈明がなされた。亡くなった方、遺族はいったい何度打ちのめされたら済むのかと、私の怒りは沸点に達した。
行政や企業のトップの放つ言いわけはいつだって「奢り」が染みついている。彼らが守ろうとしているものはいったい何なのか。所属する組織? 自分の名誉や地位? 「正義」はどこにあるのだろうかと思う。
人間はいつだって無力だ。数日前にサモアで起きた津波のニュースに、改めてその感を強くする。しかし自然災害といいながら、人々の生活が文明化され、利便性を求めたがゆえの「人災」の要素が強い。環境汚染、医療過誤、暴力やレイプなどの犯罪は、人が起こした災いであることは間違いない。自殺者が年間3万人、それが10年以上続く国ニッポン。これらの問題が決して個人の問題にとどまらず、根深くどこかでつながっている、ことに二次被害、三次被害は人が起こす残酷な災害と言えよう。社会全体が人の命を産み育て、尊重し、つなげていく営みを大切にしない限り、命はいつも危機的状況にさらされる。人が人を傷つけることはもう止めたい。